2011年7月31日日曜日

信仰とは何か:沈黙(遠藤周作)

先日の記事で、「最近の物欲にあふれる自分の心を拭おう」と、遠藤周作氏の著作を取り上げると予告しましたが、氏の代表作の一つ、『沈黙』を取り上げてみようと思います。
残念ながら、心の汚れは取れませんでしたけど(笑)

ちなみに、僕はプロテスタント系の私学で学んできましたが、クリスチャンではないので、キリスト教のことは然程詳しくありませんし、遠藤氏の描く「信仰」や「信教」が、キリスト教の教義に準じているかどうかは、まったくわかりません。

無信心者の僕が、この本を読んでどう感じたか、程度に読んで頂けると幸いです。


タイトルの『沈黙』が意味するのは、「神の沈黙」。
祈れども答えぬ、神の沈黙を示してます。

舞台は、江戸時代初期の日本。
キリシタン弾圧が行われる、日本に潜入して、布教を試みようとする二人の宣教師(パードレ)、ロドリゴ師とガルペ師の物語です。

物語は、前半はロドリゴ師の書簡、後半は第三者視点で描かれるのですが、二人の前には、殉教か棄教か、逃れられる運命が、物語の冒頭から色濃く立ち込め、厚い雲のようにふさがっています。

その意味では、物語の結末はほぼ読めていて、見えている結末に向かって、ページを繰っていくだけ。
結末はわかっているのに、何故かものすごく物語にひきつけられてしまいます。
ユダとキリストになぞえられた、キチジローとロドリゴ師の関係なのか、それともドラマチックな殉教を遂げる、強き信者たちの姿なのか。

そして、迎える「予想通り」の結末。
しかし、結末に至るまでの過程に、僕の予想を若干超えたものがありました。
「神の沈黙」に絶望しながら、殉教するのか棄教する。それが僕の予想でしたが、主人公ロドリゴ師は、違う選択をしたのです。

「神の沈黙」の中に、彼が見出したのは、同伴者イエス。
痛みを、悲しみを、自分と分かち合い、伴に歩もうとする神の姿。

ここから先は、ネタバレになるので、あえて伏せますが、僕の駄文を読んで、興味を持たれた方は、ぜひ読んでロドリゴ師の選択を確認して欲しいと思います(ググれば結末なんて判っちゃうんですけどね)。

「神への信仰」と「宗教」との関わり。
遠藤氏は、両者は異なるものと考えておられるようですが、僕にはその考えはしっくりときました。
読後の余韻も深い、名作とはこういうものだ、と感じ入る作品でした。

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