2012年3月17日土曜日

信じてはいけない「自称」入門書:ふしぎなキリスト教/橋爪大三郎、大澤真幸

ここ最近、ひたすら自転車ネタが続いていたのと、読書も小説が多かったので、違うジャンルにも手を出そう……と思って本屋さんで手にしたのがこちら。
すごく売れているらしい。新書なのに、20万部突破って結構すげーぞ。
帯には「すべての疑問に答える最強の入門書」なんて書いてますので、期待が高まります。

で、感想ですが、「帯に偽りあり」な気がします。
確かに、「入り口」としては面白いですが、「入門書」としては不出来です。
興味を持ってもらうための入り口としては、非常に出来がいい本ですが、書かれた内容をそのまま信じてキリスト教を語ると赤っ恥をかきます。世界史のテストで悲惨な目にあう可能性もあります。

僕レベルの知識(聖書をはるか昔に読んだことがある。神学・宗教学はほとんど無知)でも、「え、違うんとちゃう!?」と思うところがあります。
# 正直、「え、違うんとちゃう!?」と言う思いが強くなり、終盤は結構読み飛ばしちゃいましたが^^;

まぁ、 詳しくは、たくさん批判サイトなんかもあるので、そちらをご参照ください。
僕なんかより、はるかに詳しい方が色々と間違いの指摘などをされてますし、アマゾンのレビューも素敵な状態です。
ちなみに、「批判サイトに対する批判サイト」なんてのもあるので、両方あわせてみると、面白いかも知れません。
本書に限った話ではありませんが、「メディアに書かれたことを鵜呑みにせず、ちゃんと調べる」癖を身に着けるための教科書としては、最適な本なのかも知れません。
いくつか批判の声を取り上げて、それに対する僕の見解も加えてみましたので、参考にしていただければ幸いです。

ちなみに、やや甘口評価なのは、僕が「興味を持たせるための入り口としては、評価できる本」だと思っているからです。
奇しくも、引用させていただいた批判者様のお言葉の中にある「飲み屋談義」だと思って読むべき本で、興味を持ったら詳しく自分で調べる、と言う人には向いている本です。
本に書かれたことは真実であるべき、とか、本に書かれているから全部真実だろうって思う人には、向かない本ですね。



では、批判コメントとそれに対する僕の見解です。
批判コメントについては、以下サイト様から引用させて頂いています。

誤りと誤解と偏見に満ちている本

--- 引用開始 ---
「ユダヤ教もキリスト教も『ほとんど同じ』なんですと橋爪氏(16頁)
→確かに「議論のはじめなので、ユダヤ教についても、キリスト教についてもよくわからないという前提で」ユダヤ教とキリスト教の「関係を端的に」のべる と、という断りがあるが、しかしいつの時代のユダヤ教或いはキリスト教が同じか、ということも語らないような、飲み屋談義で本書ははじまっているのは明ら か。ユダヤ教もキリスト教も21世紀の現在のような形に突然なったわけではない。ここでもう既に橋爪氏は学問的正確さを投げ捨てていると言えよう。
--- 引用終了 ---

これは、何も(ユダヤ教もキリスト教も神=ヤハウェと言うことも)知らない人に対して、「ユダヤ教もキリスト教も同じ神を崇めている」と言うことを言いたい言葉で、本書を手に取る人を考えると、まずこのレベルの説明から入る必要があるので、これは目くじら立てる個所ではない気がします。
とはいえ、後続のキリスト教・ユダヤ教の違いにはちと疑問を挟みたくなる。
批判者様も書いておられるが、「この人は神の子や三位一体と言う概念をちゃんと理解しているのか?」と言うのは、正直怪しい。

--- 引用開始 ---
・「『メシア』はヘブライ語で、救世主という意味」と橋爪氏(17頁)
→ヘブライ語では勿論皆さんご存知の通り「油注がれた者」。このくらいのレベルから間違えている。
--- 引用終了 ---

これは本来の意味的には、批判者様が正しい。
ただ、油注がれたもの→神的な救済者、と言う意味もあるようなので、メシア=油注がれたもの=神的な救済者(救世主)、と言う書き方をするべきなんだろう。
しかし、 油注がれたもの=神的な救済者(救世主)と言う話を、対談と言う形の中で説明するのは、無理がある(まして、キリスト教・ユダヤ教をよく知らない人に対して)。
と言う意味では、対談の中では、 「『メシア』はヘブライ語で、救世主という意味」でもいいが、注釈をがっつり加えるべきだったと思う。
そういう意味では、注釈が欠片もないのは、非常に残念な本で、出版社の手抜きと言われてもしかたないと思う。

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